野田市にあるの?戦争のお話…。あるんです。第二部
2020年8月15日:情報(ニュース)
終戦記念日ですね。。野田市における銃後の生活
考えてみたら…。野田市の歴史資料があるようでないのが現実で…。調べるのは大変でした。
そこで、右とか左とか。戦争云々はよくないとかでなく。淡々と書いていきたいと思います。
昨日は第一部は「野田市にあるの?戦争のお話…。あるんです。第一部」を記述しました。
第二部は基地や軍より、もう少し市民こと民間人が銃後でどのような状態だったのか。そこを見て行きたいと思います。
誤字脱字や文章の訳が間違ってると思いますが、温かい目で見て頂ければ幸いです。
まずは野田市の年表を見て行きましょう
こういう時に役に立つのが年表。野田市でどのように動いたのか…見て行きましょう。
- 昭和14年(1939年)
- 千葉県醤油醸造組合から千葉県醤油工業組合が結成されます。
物価統制と国家総動員法により、醤油を含まれた価格統制が始まります。 - 昭和15年(1940年)
- 野田醤油会社にて防空兵器練習団が設置。
戦時食糧報国運動実施要領が決まる。週一節米デー - 昭和16年(1940年)
- 野田町でも隣組が一斉に常会が開かれる。以降月一。
興風図書館新築落成し、同年11月に開館します。 - 昭和17年(1941年)
- 味噌・醤油配給統制規則実施
福田・旭で電話交換事務が開始される。 - 昭和18年(1943年)
- 土浦海軍飛行隊の訓練機2機中1機が墜落。
野田橋が鉄筋コンクリートになります。 - 昭和19年(1944年)
- 14歳から20歳未婚女性は軍需工場に動員開始。
この動員ですが、野田醤油に行くこともあれば軍需工場のこともあれば…。はたまた北海道の炭鉱に行く人もいたようです。
野田町内の国民学校の庭を500坪を開墾。
この開墾は職員70人程度で行われて、児童給食用に充てられます。
東京へは、春日部経由で行くことに制限する。
総武鉄道から東武鉄道に統合されます。(東武野田線(アーバンラインになります))
勤労奉仕は各家で進みます。
野田商誘銀行は千葉銀行に統合される。
タバコも隣組単位で配当配給になります。
東武線も柏から大宮間で女性運転手を採用することになります。
野田高等女学校学級閉鎖(これは今の野田中央高等学校の祖になります) - 昭和20年(1945年)
- 東武線で清水公園~愛宕駅間で満員電車が正面衝突事故が起き、死者6名、重軽傷者33名。
福田村(福田地区)にB29が墜落
野田町の特定区域で強制疎開が始まる。
野田町国民義勇隊(ざっくり言えば郷土防衛する正規軍とは違う部隊です)結成式が行われる
3万人の野田町町民が玉音放送を聞く。
天気予報復活。灯火管制解除。電信・信書といった検閲停止されます。
気になった点
この時に驚いた点は、昭和19年(1944年)にあったお話でした。
これは野田町のお話と思いますが、旅行するのに規制があったのは存じてましたが、春日部経由に東京を行くことに制限されている点。
女性運転手の採用という点がありました。
木製だった野田橋が鉄筋コンクリート造になったこと。戦時中でこれは驚きますね。
そして、東武線で正面衝突事故があった話と、当時の野田町も色々あったというのは納得できます。
よくある金属回収…
よく歴史教科書でも見ますね。金属回収令が政府から出たって感じですね。
そのような金属回収は行われてました。
これは次の「野田町常会ってなにしていたの?」で、金属回収を行う話が当時の議事録で残っておりました。
それを見て頂けると、どのような形で金属回収が行われていったのか…っていう流れがわかると思います。
鐘や仏具の供出が行われてました
野田町の西光院(現在の愛宕にある)と川間の六寺院(川間村の寺院協会)でも、鐘や仏具の金属回収というのは行われており、供出は行っておりました。
これは、当時の東京日日新聞にも記述されております。
野田町常会って何してたの?
基本的に連絡会に近く、どのようなことを行うのか?って言う点や、隣組と言う点もあり、各家の指示内容が多いです。
今風にいうと。町内会の会長同士の会議みたいなものです。
行われた「戦時徹底事項」という昭和17年11月に行われた常会の内容をみていきましょう。
難しい言葉をざっくり今風の言葉に訳すとこのような形になります。
- 金属回収
- 大東亜戦争冠水のため、必要となる同鉄の供給力を増強する必要がある。
そのため、一般家庭から寺院や教会に対して、第二回金属特別回収を近く実施する。
これについては、取り急ぎ行いますので、ご協力することをお願いします。 - 各町内会会長・隣組組長は申込用紙を各家に配布すること
- 各家庭においては、供出見込みの数量を12月8日(大詔奉戴日)までに記入すること。これは強調しておくこと。
供出は奨励すること。
(大詔奉戴日(たいしょうほうたいび):太平洋戦争開戦の詔勅が出された 1941年12月8日を特別に記念する日。42年1月2日の閣議で決定され,同年1月8日を第1回とし,以後毎月8日を大詔奉戴日とすることになった。国民の戦意高揚をはかる目的でとられた措置の一つ。)
供出するものは、廃品と現用品(使ってるもの・未使用)は分けて扱うこと。 - 七五三について
- 七五三といった家庭における祝辞は廃止すること。
七五三といったお祝い事は家庭では行わず、各連合会で神前の前で行うこと。
式服を新調する場合は簡素で学校服(制服?)に転用できるようにすること。 - 新穀感謝祭について
- 11月23日は新嘗祭(今は勤労感謝の日)を中心に全国一斉に新穀感謝祭が行われます。
食膳に向かっては、神への恩と皇恩へのありがたきを感謝をして、食料を粗末にしないようにすること。 - 燃料・電力の節約
- 燃料と電気は戦争遂行の原動力だから、各家庭はできるだけ節約して、生産力拡充から国防上必要なところに回すこと。
薪炭等の燃料は、この冬は供給が可能であるが、不足するかもしれない。
一片の炭も無駄に使わないように注意すること。- 11月16日より1週間は全国一斉燃料週間が行われます。電灯消費制限も行われます。
一定以上の電気を使った場合は、特に高い料金を支払うことになります。
(今風に言えば…。。基本料金以上の電気を使ったら、その月の電気代の基本料金は2~3倍にします。っていう感覚かもしれません。) - 11月16日より1週間は全国一斉燃料週間が行われます。電灯消費制限も行われます。
他にもあるが、このような話をみていくと、当時の生活や隣組の話という点がわかっていきますね。
これは野田市だけでなく、どの町でもあった話だと思います。
川間地区(川間村)の「川間村民戦時生活実践要項」とは?
これは昭和17年に定めたともいわれており、内容としては川間村としての方針を書いたようなものですね。
上記は野田市(野田町)のお話ですからね。
これもわかりやすく今風に書いていきますね。(解釈や訳し?が一部違うかもしれません。難しい…)
『千葉県民戦時生活実践要領』という言葉があるので…。千葉県全体が実態はこの要項はあったと思います。
今の川間地区だけのお話ではありません。
趣旨
今や大事業ともいえる、東亜新秩序建設を着々と進めております。
国際情勢はますます複雑であり、帝国の前途もまだまだ容易ならざるものであり、この秋は時局?を克服し、建国の大きな理想を形として実現するためには、一億一心に自我功利(個人主義(功利主義)的要素ですね。)を捨てて、国策遂行に協力し、奉公の精神もって、これが実現させるべく、まい進させていかなければならない。
銃後の村民生活の刷新を機に、千葉県民戦時生活実践要領に則り、けっして動揺せずに、その決意は実行するべく努力して、村全体でこの聖業完遂のために奉公する必要があります。
実施要領
- 前線の苦労を想い、一切の生活を上げて国策に協力し、贅沢をやめ、質素簡素を尊ぶこと。
- 毎朝必ず家族で、宮城(皇居)遥拝をして、神棚や仏壇にも拝礼をすること。奉公感謝の生活と心身の修練の向上に努めること。
- 婚礼は神前で行うこと。厳粛質素で行うこと。服装や調度は一切華美を排して、簡素に勤めて引き出物は全廃すること。
- 葬儀は厳粛に行うこと。花輪等は極力排しすること。香典もなるべく全廃して、一部は公共事業に寄付するなど、志を生かすこと。
葬儀・新盆・年忌等は一切お酒を使わないこと。 - 七五三、出産、ひな祭り、端午といったお祝いは精神を尊び、気持ちや心がこもっていない形だけのものは廃止し、内々のお祝い程度にすること。
紐解き祝いの式服を新調する場合は、必ず学校服(もっと今風制服)に役立つものにすること。(その場限りでなく、転用可能にするって感じですね。) - 年末・年始の中元といった贈答は全て廃止すること。
- 礼服の新調は、宮中関係、神社関係といった特別の場合を除く他、これを全廃し、平服に儀礼章を代わりとすること。
(ここでの儀礼章とは、国民服儀礼章のことだと思います。ここでいう平服(国民服)に使うためのものです。支那事変(日中戦争)中に制定されたものです。儀礼用の飾緒と言えば早いです。) - 華美贅沢の服装や調度は新調するのはもちろん、使うことも慎み、従来の物を修理して活用して、物資を愛護すること。
ここで上げられたのは、指輪、ネクタイピンといった貴金属から宝石等の装飾品は絶対に使用を避けること。
さらには腰掛、手袋、婦人洋傘、ハンドバックなどは実用を主とせるものとすること。 - 宴会のその他会食は。行わざる得ない場合、戦時下に相応の簡素のものになるべくすること。
- 諸会合の時間は厳格に守ること。開始は定刻通りに行い、時間尊重の風習を確立すること。
付帯
婚儀、葬儀の執行については、あらかじめその方法や内容を関係者に伝えておくこと。知事の委嘱(代行業務でもいいかもしれません。または代理でおこなう委員)されてる、戦時生活刷新委員に協議をした上で、この認可を受けること。
これは千葉県民戦時生活実践要領に則った話でもあります。中身を見ていくとまだ昭和17年頃(1942年)の取り決まりなんですね。
この時期の太平洋戦線を見ていくと、ミッドウェー海戦があり、ガタルカタル島の戦闘が始まった時期であり、まだ日本軍がまだまだ健在で米国が反攻にでたくても、まだまだ先という状態でした。
それで、このような実践要領があったというのは、驚かされます。
実際にここまで行われたかはわかりません。
しかし、戦局悪化していく1944年(昭和19年)の時期になれば、もっと厳しい内容になっていたかもしれません。
野田市食糧事情
注意:食糧事情は見ていますが一部の情報です。当時野田市にいた人でも困窮した人や困り果てた人だっているでしょう。 その辺は情報不足でございます。その辺はご了承ください。
「戦争中は食糧がなくてねー」ってお話はよくあるあるですね。
配給制で食いものに困った…という話はよく聞くと思います。
野田市は野田町以外はざっくり言ってしまえば、当時は農村ですので村から野菜をリアカーで持ってきた人がいたりと、都心に比べたら野田市全体はもしかしたら…。
土地が余っているところを無理矢理畑にしていたりしていたようです。
そのため、苦労があったとしても、大きな町より農村が多い…という点で食糧事情は比較的に恵まれていた方という点が多いです。
恵まれてる方とはいえ…。。
しかしながら、闇米の購入や生産している農家でも農作物(特にお米)供出が決まっており、そのため他の農家の余ってる分を融通したり、借金してまで供出したということです。
そのため、戦後40年の時点では野田市の一部地域ではその無茶なこともあり、そのような恨みと言うのか、そのような根が残っていたようです。
結果として、農家ですらサツマイモやじゃがいもを食べることがあったようです。
農家の供出とは?
これは、当時の制度を知っていないといけない内容ですが、ざっくり説明すると。
軍隊は兵数大きくなればなるほど、食料っていうのは必要です。
「今年は不作だな…」とか「今年はいつもの2割ぐらい収穫ないな」ってことは、今でもあるお話ですね。昨今はよく野菜で聞きますよね。
そうなると、その分に応じて供出するってイメージがあるでしょうけど、そうではないんです。
一律決まった量を絶対不作だろうが、農家で食べる量にすら困る状態であろうが、一定量を納めないといけない制度がありました。
さらに、一番の働き手である若い男性は徴兵されたり、臨時召集(赤紙)で召集されてしまい、生産力が落ちることだってありました。
それで、供出ということをしておりました。
たしかに、農家の事情考えずに供出を永遠にやっていれば、当時の政府は農家から鬼畜に思われていたでしょう。
そのため、そういう恨みと言うか。根が野田市でも一部あったようです。
流石に戦後から70年経っておりますので、そのような話も薄くなっているでしょう。
戦争が悪かったで片せない内容なんです。
供出した結果、食べることに農家ですら困ったケースが野田市ですらあったようです。
そうなれば、食べ物の恨みは恐いとも言います。そうなれば戦争だったから…でなく。そういう根は戦後40年の時点ですら残っていたようです。
結局…
たしかに大変じゃないかとなりますが、まだこれでも恵まれている方でもあるんです…。
都市部では配給制でなかなかお米の入手有無は相当苦労された話があります。
当時の野田市のことを考えると、まだ入手はしやすかった環境ではあったからこそ、恵まれていたともいえます。
学校ではお弁当をお昼に食べるとします。
その弁当箱を先生が検査をして、米粒残っているかというチェックも入ったようです。
献納機。野田醤油号という戦闘機のお話
そろそろ今回でラストを飾るのは…。戦闘機の献納をしていたお話です。
昭和13年5月に成田山新勝寺と野田醤油株式会社(現在のキッコーマン)及び千秋社(清水公園を管理してますね)が、当時の日本陸軍で行っておりました。
献納機の詳細
当時の羽田飛行場(今の羽田空港)で杉山陸軍大臣(のちに太平洋戦争では参謀総長になります)の元、行われた式典だったようです。
1機目は「愛国273号野田醤油号」2機目は「愛国275号新勝号」として献納されております。
操縦した…
これですが、記録を見ると野田醤油号については本社航空部が操縦したという話があり、羽田飛行場で色々な技を披露していたようです。
問題は献納した機体
献納機体は2機とも陸軍の97式戦闘機ということがわかっております。
ってか献納機とは?
当時の野田町が右だったとかでなく、キッコーマンが戦争遂行に協力的だったという意味でもなく。 よくあるあるなこれもお話です。
理由としては、軍へ国防献納といって物資やお金を企業や市民が募金から、新聞社が募金を大々的に宣伝したりして、軍部に国防献納を行われておりました。
今回は献納機でございますが、軍事物資からヘルメット。車から装甲車まで幅広くあります。
これは日清戦争の頃から始まっていたとも聞いてもいますが、そのため基本的に日本全体で国防献納はよく行われていたという認識でよいと思います。
時代的にそういう流れだったという感じでいいと思います。
今風でいう、SDGsやCSR。さらにクラウドファンディングから企業を通した募金に非常に近いので、それが身近にあったと思えば早いとも思います。
さいご
今回は戦争ということで、第一部は「野田市に飛行場を作っていた!」「野田市に海軍の造船工場があった!」という軍隊的なお話がメインでございました。
今回は市民生活と言う点で何があったのか?と言う点をお役所の実践指示内容とはいえ、書いていきました。
終戦記念日ですが、「悲惨な戦争」というもので終わらせるのではなく、重要なのは「起こさないようにする」点だとも感じます。
そして、太平洋戦争は国家の全てを上げた総力戦でした。
その時の市民生活というのは、軍における作戦や基地はわかっていても、野田市に住んでいても、このような話はなかなか入りません。
さらに歴史としては、資料に埋もれて「風化」しているのも事実です。
「悲惨な戦争を繰り返さない」ならば風化させないことも大事です。だから、このような特集を組んだことを理解していただければ幸いです。
引用
- 野田市史 近代史2
- 終戦40周年記念・野田地方終戦前後記「くりかえすまい」
- 陸軍愛国号献納機調査報告
- 九七式戦闘機(Wikipedia)