野田市にあるの?戦争のお話…。あるんです。第一部

2020年8月14日:情報(ニュース)

終戦記念日に近いですね。。野田市における銃後の生活

考えてみたら…。野田市の歴史資料があるようでないのが現実で…。調べるのは大変でした。
そこで、右とか左とか。戦争云々はよくないとかでなく。淡々と書いていきたいと思います。

誤字脱字や文章の訳が間違ってると思いますが、温かい目で見て頂ければ幸いです。

そもそも戦前・戦中に野田市がねーよ!

野田市に長く住んでいたらわかる話なのですが、今の野田市は平成の大合併で、2003年に関宿町を編入してできて今の野田市ができましたが、その前の野田市も1950年(昭和25年)に出来てます。
・・・あれ?野田市の歴史資料となってしまい残っている資料もなかなか厳しいんです。。
そのため戦中に野田市という形が存在すらしていませんので、どこまでさかのぼるのかとなります。
1950年(昭和25年)に野田町・旭村・梅郷村・七福村が合併したことで、野田市ができますが基本的に旧野田町を中心にできており、この時はまだ川間・福田両地区は独立した市町村でした。

それらが野田市編入されるのが、1957年(昭和32年)とまだまだ野田市という市が若いという点です。
旧野田町を中心に資料も存在しており、野田町がいかに戦前・戦中は歴史を見ていくと、繁栄していた町というのはわかりますし、周辺の村とは違いや格のようなものを見せてる点もあります。
そこで…。野田市駅周辺と川間駅周辺の空撮写真を1946年(昭和21年)3月撮影を見てみましょう。

上空写真でわかる内容ですので、いかに野田町が醤油で発展していたというのがわかる内容です。

野田市駅周辺
川間・七光台周辺

さらに昭和20年(1945年)7月には野田にも宣伝ビラがばら撒かれていたり、野田市の大師山(わかりやすく言うと野田橋辺り)に機銃掃射があったという話もあります。
そのような話をみていくと、機銃掃射が柏なら施設があるからわかりますが、野田まで来ていたというのは驚きますね。

え?野田市に飛行場を作っていた?

現在の蕃昌地区といいますか。もっとわかりやすく言うと、今の野田市の七光台小学校やロックタウン辺りは松林だったのはよく聞いている話ですが、開墾作業をして野田市に蕃昌飛行場と呼ばれる飛行場を建設作業をしていました。共同通信社の跡地が大きな土地が古くから野田市に住んでいた人はわかると思いますが、元々はそのような飛行場を作っていたため、開けた土地があったということですね。

川間駅周辺の米軍空撮写真を見るときに、このデカいゴルフ場のような空白地帯がありますが、ここが野田市にあったという蕃昌飛行場です。

大きな白い空白がありますがここが飛行場です

なんで建設終えなかったの…

野田市の資料を調べても調べても、飛行場を作ったというのは本当に資料が歴史資料としてはほとんど存在してなく、さらに野田町でなく当時の七福村や川間村時代の場所のため、さらに資料が…というのが現実です。
実は、建設開始したのが1943年(昭和18年)で、終戦までに飛行場として稼働しなかったという、建設期間があまりにも長く、使われなかった内容です。
さらに、資料によっては滑空練習場という形で記述もされております。

飛行場としては、資料で証言された方曰く。格納庫まではできていて、不時着した機体が1機いたとのことです。

本土決戦の時に使われることになっただろう飛行場ですが、戦後すぐに1年も経たずに田畑の開墾として、払い下げられ田畑の開墾されております。
この時に「七福農場開拓農業協同組合」と「光風台農場開拓者協同」。そして増反営農者が昭和20年9月10日に入植した結果、田畑が出来上がっていくわけであり、飛行場というものは田畑に消えていき、幻の飛行場となっていきます。

道路といったところに滑走路の跡地のような面影はあるかもしれませんが、七光台小学校卒業の自分としては、小学校の場所が戦時中建設して、稼働しなかった飛行場の土地に立ってるとは思わなかったですね。

これでピンと来たがいますが、この「七福」と「光風台」を取り、今の七光台という地名が出来ております。
建設中…というより、建設は終えていたけど使われずに終わった飛行場かもしれません。

この飛行場は元々興民社の所有地とだったのですが、この組織は1945年にできており所有されていたという点を考えると、陸軍から払い下げがあったのか、所有者の経緯を見ていくと、通信社の所有物か陸軍が元々建設を進めていたのか…。このどちらかになっていきますが、実はどこの組織が建設開始有無については書いていないんです…。

柏の田中飛行場の燃料を保管していた?

柏に陸軍航空隊の基地もあり、野田市の旧利根コカ・コーラボトリング株式会社の周辺に柏の田中飛行場が使う燃料が入ったドラム缶が松林の中に隠されていたり、他の裏山というところにも燃料を隠匿を違う部隊でもしていたようです。

野田市は柏の陸軍基地の影響もあり、末期になればなるほど、野田市は部隊の疎開先や森の中で物資の隠匿。そして、野田醤油(今のキッコーマン)から野田町の国民学校(小学校)から一部施設といったところは、一部陸軍部隊が駐留したり、倉庫を飛行師団の物資保管で使われていたとのことです。

この柏の田中飛行場…柏飛行場とも呼ばれてましたが、この陸軍航空隊の基地とも野田市は密接に繋がっているところはあります。

ガソリンの戦後

戦後。そのガソリンは農業用発動機として、協同組合で分け合ったりして消化したということです…。
本来は物資有無を見ていくと…ってなりますが。
当時の状況を攻めることはできないのと、軍需物資の横流しや隠匿は戦後直後は闇市に流れた話までありますので、そういう時代だった…と言う風に片したいです。
日光街道周辺の松林のガソリンのドラム缶を穴掘って温存していたようです。

ところでその柏の飛行場って今は…

その後は米軍の通信施設になりましたが、今は野田市の人ならたいてい知っている…。
柏の葉という町に生まれ変わりました。
こういう戦前から広い土地があったからこそ、出来たことだったかもしれません。
実は、秋水というロケット戦闘機の試験も行っていた歴史に残した飛行場だったりもします。

知ってる人は知ってる?清水公園の座生荘でエンジン整備?

1945年(昭和20年)から、柏から疎開先として選ばれたのが…。なんと清水公園にある座生荘でした。
陸軍の発動機(エンジン)の修理・整備工場ということで、整備を行っておりましたが、柏からの距離問題と当時の燃料事情もあり、整備するだけでも部品点数もあり大変だったとのことです。
野田市にB29が墜落をしておりますが、その部品を見に行ってる人もいて、工業水準の高さをこの時感じた人も多くいたようです。

この時、キ43こと一式戦闘機「隼」と呼ばれる陸軍機で有名な機体の発動機の分解修理を行っていました。
この機体は零式戦闘機(ゼロ戦)に並ぶ有名機体です。

実はこの時に疑問があったのが、キ43の発動機なのか…と言う点でした。
柏に昭和20年に配備されていたのが、一式戦の配備がわかりませんでした。(4式戦や5式戦の機種転換中)
もしかしたら、機種転換を行っていたのか、それとも柏飛行場に残置されていたのを整備していたのか。

整備が行われていたと仮定した場合。ハ115かハ115-Ⅱという形ではないかと推察はできますが、そこまでわかるデータはないようです。

野田市で造船工場があった?海軍用地があったんです。

造船…。海にあるイメージですが。
野田市の浅間下の江戸川沿いに横須賀海軍管制本部直轄の造船所がある…という内容がありました。
※こちらですが「海軍艦政本部」のことだと思います。
戦後40年で作られた資料ですので、海軍の組織がわからないと、間違いやすい内容とも思います。
野田醤油株式会社の十三工場の跡に作られたようです。

浅間下ってどこよ?

野田市民でも浅間下というのは、今でいう中野台です。
「野田市浅間下排水ポンプ場」という地名が残っていますので、そこだと思われます。
空撮写真でも船らしいものがいくつかあるので、その名残があるかもしれません。

作っていたのは、曳航船を作っていたようです。 もうちょっとわかりやすい地名を出すと、野田橋周辺と言えば早いかもしれません。

曳航船という名の樽技術を転用

金属不足が起きていたのは、野田市でも同様で…。
戦争中期ごろより、貨物船の補給がおぼつか無い状態になっておりました。
野田市は樽職人がいたことは昔や自分が子供の頃に聞いたことがあります。

そこで、そのような技術を使い、その木製の樽を味方がいる島嶼に近づいたら、それを夜間になったらそれを潜水艦や駆逐艦で引っ張っていたのを切り離して海岸で拾ってもらうという形を取るという、まるで末期感全開の話ですが、実際に行われていたようです。

そのため、試験はおこなわれていたようですが、実戦投入はされてなかったと思います。

このあたりは機銃掃射が行われた話があります。
戦争末期は情報だだ洩れでしたし、先の飛行場の話も米軍資料にありました。 となると…。

この海軍施設も知っていたでしょう。そのため海軍施設の機銃掃射だったとも思われます。

さいご

今回はこれは第一部として、第二部は戦時下の野田市をもうちょっとやっていきたいと思います。
第二部ではこのような話ではなく、銃後における市民生活や密接に生活につながるお話を特集したいと思います。

引用

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